8-9. 人吉球磨地方の観音信仰
1. 神仏習合の「青井さん」と相良観音
先に、山深い人吉球磨地方には、九州でも国東半島に次いで庚申塔の数が多く残っており、庚申信仰やそれに伴う信仰行事が盛んであったことを述べた。さらに、国東半島とは距離的にも遠隔地なのに、なぜ共通の信仰文化が芽生え根付いたのか、それは「神仏習合」ではないかという憶測もした。
「神仏習合」については前にも述べたが、日本土着の神道と仏教が結びついたもので、その基本思想は、八百万の神々はさまざまな仏(菩薩や天部など)が化身として日本の地に現れた仮の姿(権現:ごんげん)であるとする考え方である。したがって、神道の神と仏教のお釈迦さまを同列のものとして認識することから始まり、神社のご神体に仏像が据えられ、僧侶が神前で読経するなど、寺でありながら神社のような、神社でありながら寺院のような神宮寺が建立されるまでに浸透していった。
とりわけ、大分県の国東半島一帯では、古来よりあった山岳信仰の場が、奈良から平安時代にかけて寺院の形態を取るようになり、近くの宇佐神宮を中心とする八幡信仰と天台宗系の修験(しゅげん)と融合して神仏習合の独特な山岳仏教文化が形成された。今では三十三の寺院と番外の宇佐神宮を加えた国東半島三十三箇所巡りが盛んに行われている。
神仏習合でもう一つ典型的な例がある。熊野古道や熊野詣で知られる熊野三山である。熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の三社では、祭神として速玉男命(はやたまのをのみこと)や天照大神(あまてらすおおかみ)および瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)など幾柱かの神々と一緒に千手観音や十一面観音、および薬師如来など多くの観音菩薩が祭神となっている。付け加えると、聖徳太子ゆかりの日本仏教の最初のお寺とされる大阪四天王寺の西門には神社のシンボルである石の鳥居が建っている。
人吉球磨地方での神仏習合は、具体的にどのようなものであろうか。最も身近な「青井阿蘇神社」と「三十三相良観音」から推考してみる。
図1. 青井阿蘇神社 | 図2. 阿蘇神社の楼門 |
この青井阿蘇神社は近世まで(1665年頃)は仏教の真言宗の神道に基づく神仏習合が行われ、祭神である建磐龍命(たけいわたつのみこと)は十一面観音を、阿蘇津媛命(あそつひめのみこと)は不動明王を、国造速甕玉神(はやみたかたまのみこと)は毘沙門天を本地仏(ほんじぶつ)とし、神体として仏像を祀っていた。この本地仏というのは、神の正体の仏のことで、たとえば、天照大神は大日如来とか十一面観音とされている。
実は、相良三十三観音の中には十一面観音や不動明王、それに毘沙門天を安置した観音堂があるのである。具体例を示すと、5番札所の鵜口観音では、ご本尊の両脇に毘沙門天と不動明王が安置され、23番札所の栖山観音には、持国天や毘沙門天像がある。9番札所の村山観音では十一面千手観音がある。十一面観音がある札所は多く、3番の矢瀬が津留観音、5番の鵜口観音、6番の嵯峨里観音、15番の蓑毛観音、22番の覚井観音、25番の普門寺観音にも千手観音や十一面観音が、27番の宝陀寺観音、30番の秋時観音などである。28番札所の中山観音には四天王が置かれている。このように、一大豪族であった阿蘇氏の勢力、支配が9世紀の始め頃には人吉球磨地方にも及んでおり、相良三十三観音は観音信仰であり阿蘇氏信仰であったともいえる。
2. 相良三十三観音のご利益(ごりやく)
相良三十三観音巡りの起源については面白い話が伝わっている。それは奈良時代の718年、大和国の長谷寺(桜井市にある真言宗豊山派総本山の寺)の開基である徳道上人が60歳ぐらいで病死し、冥土の入口で閻魔大王(えんまだいおう)に会った。生前の罪業によって地獄へ送られる者があまりにも多いことから、何とかならないかと聞いたところ、閻魔大王は、日本にある三十三箇所の観音霊場を巡れば滅罪の功徳があるので救われるといい、それを実行するよう便宜を与え、上人を現世に戻されたという。
相良三十三観音だけでなく、全国には、「西国三十三観音」や「坂東三十三観音」など幾つかの観音信仰の霊場がある。まず、三十三観音の「三十三」の意味である。以前に、八代妙見祭りページで、「妙見さんは680年ごろ、目深・手長 ・足早の三神に変身して中国の寧波の港から亀蛇に乗って八代の竹原の港に来られた」と書いたが、実は、観音様も三十三種に変身し、衆生の悩みに応じて救済するのだそうである。この観音三十三変化身の数字に意味を持たせて観音三十三霊場とか三十三間堂が作られるようになったというわけである。
ところで、仏教では、輪廻転生(りんねてんしょう)において、その業(ごう)によって六道(ろくどう)がある。六道は、1地獄道・2餓鬼道・3畜生道・4修羅道・5人間道・6天道である。このうちとくに畜生道,餓鬼道,地獄道は三悪道といわれ、天道は天人の世界で人間の世界の人道より楽多く苦の少ない世界である。この六道それぞれの民衆を救う6体の観音さまがおられる。地獄道に聖(しょう)観音、餓鬼道には千手観音、畜生道には馬頭観音、修羅道には十一面観音、人間道には不空羂索(ふくうけんじゃく)観音、天道には如意輪観音である。ここで、不空羂索観音の「不空」とは、信じれば必ず願いが叶い空しい思いをさせないという意味で、「羂索」とは古代インドで密猟や戦闘に使われた捕縛用の縄のことである。その姿は、腕8本で3つの目があり、シカの毛皮を身に纏っている。相良三十三観音堂にはどのような観音様が祀られているのか調べてみた。結果は次の通りである。
1 |
清水観音(きよみず) | 千手観音 | 人吉市 |
2 |
中尾観音(なかお) | 千手観音 | 人吉市 |
3 |
矢瀬が津留観音(やぜがつる) | 十一面観音 | 人吉市 |
4 |
三日原観音(さんじがはる) | 聖観音 | 人吉市 |
5 |
鵜口観音(うのくち) | 十一面観音 | 球磨村 |
6 |
嵯峨里観音(さがり) | 十一面観音 | 人吉市 |
7 |
石室観音(いしむろ) | 聖観音 | 人吉市 |
8 |
湯の元観音(ゆのもと) | 聖観音 | 人吉市 |
9 |
村山観音(むらやま) | 千手観音 | 人吉市 |
10 |
瀬原観音(せはら) | 聖観音 | 人吉市 |
11 |
永田(芦原)観音(ながた:あしはら) | 聖観音 | 人吉市 |
12 |
合戦嶺観音(かしのみね) | 聖観音 | 山江村 |
13 |
観音寺観音(かんのんじ) | 聖観音 | 人吉市 |
14 |
十島観音(としま) | 聖観音 | 相良村 |
15 |
蓑毛観音(みのも) | 十一面観音 | 相良村 |
16 |
深水観音(ふかみ) | 聖観音 | 相良村 |
17 |
上園観音(うえんそん) | 聖観音 | 相良村 |
18 |
廻り観音(めぐり) | 聖観音 | 相良村 |
19 |
内山観音(うちやま) | 千手観音 | あさぎり町 |
20 |
植深田観音(うえふかだ) | 聖観音 | あさぎり町 |
21 |
永峰観音(ながみね) | 如意輪観音 | あさぎり町 |
22 |
上手観音(うわて) | 聖観音 | あさぎり町 |
22 |
覚井観音(かくい) | 十一面観音 | あさぎり町 |
23 |
栖山観音(すやま) | 千手観音 | 多良木町 |
24 |
生善院観音(しょうぜんいん) | 聖観音 | 水上村 |
24 |
龍泉寺観音(りゅうせんじ) | 聖観音 | 水上村 |
25 |
普門寺観音(ふもんじ) | 六観音 | 湯前町 |
26 |
上里の町観音(かみざとのまち) | 聖観音 | 湯前町 |
27 |
宝陀寺観音(ほうだじ) | 十一面観音 | 湯前町 |
28 |
中山観音(なかやま) | 聖観音 | 多良木町 |
29 |
宮原観音(みやはる) | 聖観音 | あさぎり町 |
30 |
秋時観音(あきとき) | 十一面観音 | あさぎり町 |
31 |
土屋観音(つちや) | 聖観音 | 錦町 |
32 |
新宮寺観音(しんぐうじ) | 六観音 | 錦町 |
33 |
赤池観音(あかいけ) | 聖観音 | 人吉市 |
このように、相良三十三観音では、地獄道に落ちた人を救う聖観音が20か所、修羅道の人を救済する十一面観音が7か所、餓鬼道の人を救う千手観音が5か所、最も幸せな天道の人救済の如意輪観音はあさぎり町深田の21番札所、永峰観音(ながみねかんのん)1か所だけである。そして、六道すべの人を救済する六観音がみえるのは2か所である。人吉球磨地方では、地獄道救済の聖観音を置く御堂が最も多く、20か所もある。この地方の人達の現世での辛苦と輪廻転生への願いが込められているのだろう。
これからは、このようなことを念頭において三十三観音巡りをしては如何であろう。付言すると、あさぎり町の「上手観音」と「覚井観音」は同じ22番札所である。また、水上村の「生善院観音」と「龍泉寺観音」は同じ24番札所である。この同番のいきさつについては探ればエピソードがありそうであるが、いきさつがどうであれ、相良は三十三観音ではなく、実数は「三十五観音」である。確か、番外ながら趣のある観音堂もあるが思い出せない。不思議なのは、五木村に札所としての観音堂が見当たらないことである。
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